親鸞聖人が関東で最初に開いた寺

願牛寺について


大高山證誠院願牛寺は、茨城県常総市蔵持(旧結城郡石下町)にある浄土真宗本願寺派の寺です。
寺伝では、建暦年間(1212年頃)に、越後から関東においでになられた親鸞聖人(しんらんしょうにん)が関東下総で最初に建てられた寺であるとされております。
現在に至るまで途中で一時中断した時代があったものの、初代の住職である親鸞聖人以降、代々の住職が守りつつ約800年ほどの長い歴史を有しております。
 願牛寺は、鬼怒川の西方2キロあまりに位置したところですが、周辺は平安時代には平将門(たいらのまさかど)が活躍をしていた地としても知られ、古墳群等歴史的遺産も数多く残っている場所です。
 江戸時代(享保年間)に新田開発が行われるまでは、寺の東側の鬼怒川と西側の古利根川、常陸川にはさまれたこの地域は、南北20キロ、東西3~4キロの細長い巨大な沼であった飯沼(いいぬま)を中心として、古間木沼、中沼等と多くの沼が点在するような湿地帯であったと思われます。

 願牛寺は、寺の南、西、北西と三方を寺をめぐるように古間木沼等で囲まれた小高い丘の上に建てられました。
現在、当寺のある場所は、幹線道路から離れやや交通の便の悪い場所となっていますが、これは江戸時代に、寺を取り巻く沼が干拓され新田になってしまい、沼を中心とする水上交通が主であった鎌倉時代とは、状況が変化した結果であると思われます。むしろ、水上交通が主であった時代には、この場所が、交通のメインストリートであったものと想像されます。
 この寺の建っている台地が、寺の山号にもなっている大高山(だいこうさん、地元での通称、おおたかさん)です。
大高山は、浄土真宗においては、親鸞聖人が茨城県内で布教をされた場所のひとつとして、稲田(いなだ)、小島(おじま)、大山等とともに歴史に名をとどめており、性信房、善性房といった親鸞聖人の多くの高弟達もここで親鸞聖人から教えを学ばれたと伝えられている浄土真宗のひとつの聖地であります。

 

願牛寺の名のいわれ

 寺の名前として、願牛寺とは一風変わった名前ですが、この寺号は、親鸞聖人が名づけてくださった由緒のある名前です。
その由来は、その名の通り、「牛」に関係があります。

親鸞聖人が大高山の地を寺建立の場所として選ばれたのですが、大高山は低い丘とはいえ斜面が急であったため、寺造営のための材木を運ぶのにも人々は難儀をしたといいます。そのような時に、どこからともなく一頭の牛があらわれ、その牛が、自らの背に材木を載せて、材木を残らず運び上げてしまったというのです。
 この因縁により、無事に建立された寺の寺号を「牛の願いによって成就した寺」という意味で、親鸞聖人が「願牛寺」(がんぎゅうじ)と名づけてくださったと伝わっております。

 

 

親鸞聖人の関東ご下向と願牛寺創建のいわれ

 親鸞聖人が関東においでになった経緯については、諸説あり、定説はまだありません。
ここでは、当寺に伝わる親鸞聖人が関東においでになった際の話をご紹介いたします。

 鎌倉時代、法然聖人がひろめられた「念仏ひとつで浄土に往生できる」とする専修念仏の教えをめぐって、それまでの仏教の教えとは大変異なる教えであったため、既存の仏教界との対立が起きました。
その頃、法然聖人の念仏の会に後鳥羽上皇が大切にされていた女官が参加し、そのまま尼になったという事件が起きました。そのことを大変不快に思われた後鳥羽上皇は、承元元年(1207年)、「念仏停止」を訴えていた奈良興福寺の訴えを聞きいれ、法然聖人の弟子である安楽房など数名を死罪にし、法然聖人自身も土佐(実際には讃岐)に流罪としました。この時に、親鸞聖人も越後に流罪となったのです(いわゆる承元の法難)。
 親鸞聖人が越後で約5年間の厳しい生活をされた後、建暦元年(1211年)に流罪を許されたところから、話は始まります。

 流罪を許された親鸞聖人は、法然聖人にお目にかかるため、建暦二年(1212年)3月、東海道を通って法然聖人がいらした京に急いで戻られようと、信州碓氷峠を越え上野にはいられましたが、ここで、「法然聖人が建暦二年正月25日に往生された」という報せを法然聖人の高弟の勢観房源智(せいかんぼうげんち)より受けました。
 その報せを受け、親鸞聖人は、「法然聖人がなくなられたのであれば、このうえは京へ行っても無駄なことだ」「これからは東国の人々に阿弥陀如来のみ教えを伝えよう」と仰せになられました。
この時、親鸞聖人に常に付きそっていたお弟子の蓮位坊(れんいぼう)が、「(それならば蓮位坊の)いとこである下総国岡田郡の城主、稲葉伊予守勝重(いなばいよのかみかつしげ)のところへお出でください」と申し上げ、親鸞聖人はそれを喜ばれて、蓮位坊の導きによって下総へおはいりになられたのです。
 下総の地で蓮位坊は、いとこの稲葉伊予守勝重に対し、「聖人へ御宿を差し上げるよう」強く要望したため、勝重は親鸞聖人にお会いしました。この際に勝重は「親鸞聖人には、全ての人々を救おうという願いがある」と気がつき、親鸞聖人こそ「生身の如来」であると感じたというのです。
 こうして親鸞聖人から阿弥陀如来の本願についての教えをいただき、勝重は武士を辞め、お弟子の一人に加えていただきました。
親鸞聖人は、それを喜ばれて「一心願海を住み処とすべし(ひたすら仏の願いに生きよ)」という意味で、勝重に対して「一心坊(いっしんぼう)」という法名を与えられました。

 お弟子にしていただいた一心坊は喜びのあまり、親鸞聖人に「この地にひとつの堂宇を建て本願念仏往生の教えを広めていただきたい」と申し上げたところ、聖人は、「越後に5年住んだが、流罪の身であったのでひとつの御堂も建立しなかった。今は幸いにも許しを得たので、坊舎を建てよう」と仰せになり、親鸞聖人が大高山の地を選んで建てられたのが、この願牛寺であると伝えられています。
 したがって、願牛寺は、「関東で親鸞聖人が最初に建てられた寺」という寺伝を伝えているのです。寺伝では、親鸞聖人は、3年間願牛寺に滞在され、周辺を教化された後、第二代の住職を一心坊にまかせ、稲田へお移りになられたと伝わっています。
(注)蓮位坊は、下妻の蓮位坊ともいわれ、親鸞聖人の常におそばについていたお弟子です。
 蓮位坊は、平安時代に活躍した源三位頼政(げんさんみよりまさ)の5代目の子孫といわれています。稲葉伊予守勝重も源三位頼政の血縁であることから、寺伝のように、この二人には関係があったものと思われます。

 

願牛寺の歴史 ~現在に至るまで~

願牛寺は、二代住職となった一心坊のあとも八代まで勝重の子孫が住職として継ぎ、続きましたが、天正五年(1577年)に、兵火により全焼してしまいます。
この後、約百五十年ほど廃れますが、寺宝を守っていた稲葉伊予守勝重の子孫が、再興に動き出します。中心となったのが、第十八代住職となった乗潤法師(稲葉八郎兵衛)です。
乗潤法師は、西本願寺ご門主や、寺社奉行等に働きかけ、享保十六年(1731年)にようやく許可が得られ、寺の再興が果たされました。

再興なった願牛寺は、享保二十年(1735年)、西本願寺ご門主から親鸞聖人のご旧跡、由緒寺院としての位置づけを与えられ、ここで現在の「大高山證誠院願牛寺」(だいこうさんしょうじょういんがんぎゅうじ)の寺号を西本願寺から授かりました。認可された寺院敷地は、大高山御堂地ほか周辺地区を合わせて四万坪と伝えられています。

願牛寺は、次第に、「親鸞聖人のご開山の寺」として、また「雁嶋」等の親鸞聖人の起された奇跡の伝承のある寺として、遠く北陸、関西、九州からもご門徒が参拝されるような寺にまで発展し、江戸時代には、大変栄えました。

当時、願牛寺は、「大高山御坊」とも呼ばれておりました。

今も残るこの当時に刻まれた石碑には、「高祖聖人関東御化導最初之御舊跡 本願寺御門跡御兼帯所 大高山願牛寺」(安永四年:1755年)と残っています。
このように再興なった寺でしたが、明治二十四年(1891年)六月二十四日の夕刻、落雷によって再度、本堂等の建物が全焼し、法物であった牛木、槙の彫船等も多数焼失してしまいました。

更に、その後、住職の早世や戦争等による寺の基盤崩壊により、戦後は一時的に住むことができなくなりました。
この結果、寺はすっかりと荒れ、かつての栄えた面影を残すものは、太平洋戦争で供出されたため梵鐘のなくなった鐘楼堂と、ご舊跡であることを示す石碑のみといわれる状況にもなりました。

 

しかしながら、昭和の末頃から平成にはいり、少しずつ寺の復興が活発化しました。

境内地の整備・庫裏建物の復興を行い、平成23年には鐘楼堂に梵鐘を復興し、また、本堂の改修も行い、ようやくかつての寺の状況にまで戻すことができました。

 

竹林や梅や桜など豊富な樹木に囲まれた境内にある小さな寺ですが、800年前に親鸞聖人が歩かれた雰囲気を感じられる願牛寺にお出かけください。